01.琉球王国
沖縄県はかつて琉球王国という、国王を頂点とする独自の国家を形成していました。
1187年に舜天王統が始まり、以後、英祖王統、察度王統と続きます。察度王は、中国からの招きに対し1372年に泰期を中国へ遣わし進貢します。ここから周辺国が中国へ貢物を捧げ、恩賜が受けられる「進貢」と、中国皇帝が周辺国の君主を承認する「冊封」による冊封体制が始まります。
当時の琉球は、北山・中山・南山に分かれ互いに争っていましたが、第一尚氏王統の尚巴志王がこれを討ち、三山統一を成し遂げました。その後、1470年には伊是名島出身の金丸が王位に就き尚円王と称し、第二尚氏王統が始まります。
14世紀から16世紀にかけて、琉球は中国・日本・朝鮮・東南アジア各国と中継貿易を行い、大いに栄えました。後に「大交易時代」と呼ばれたこの時代の繁栄の様子は、「万国津梁の鐘」の銘文として刻まれています。
しかし、1609年、薩摩藩が兵3,000をもって琉球へ侵攻します。以後、琉球は日本の幕藩制支配下に組み込まれますが、中国との関係も続け、日中両国の外交的関係の下、王国体制を維持していきました。
02.王国時代の首里・那覇
交易国家としてアジアの海に雄飛した琉球には、様々な文化が行き交いました。その結実として中国や日本から強い影響を受けた独自の文化が育まれました。その中心地となっていたのが、首里や那覇、すなわち現在の那覇市です。
現在の那覇市は、首里・那覇・真和志・小禄という、それぞれ別の顔を持つ4つの地域によって成り立っています。
首里は王城である首里城を中心に形成された王都で、王国の政治・文化の中心地でした。
那覇は那覇港を擁したことから、港町として発展しました。泊港を擁する泊村、中国からの渡来人の子孫が住む久米村も当時の那覇に隣接しています。
また、かつての那覇は「浮島」と呼ばれる離れ島で、1451年に建造された「長虹堤」(約1kmの海中道路)によって対岸と結ばれていました。
一方、真和志や小禄地域(当時は真和志間切、小禄間切)は都市近郊農村として、首里や那覇といった都市での生活を支えていました。
03.沖縄県設置
1872年、明治政府より一方的に琉球藩が設置され、1879年には陸軍と警察を派遣し沖縄県が設置されました(琉球処分)。
このとき、県庁が那覇に置かれたことで、那覇が政治・経済の中心地となりました。さらに1921年5月20日、当時の首里区・那覇区に市制が施行され、沖縄県において初めて「市」が誕生しました。
ところが、1944年の10・10空襲では米軍の空襲を受け、那覇市域の90%を焼失、さらに翌年の日米両軍による地上戦で多くの人命と文化遺産が失われました。
戦後の沖縄は米軍の統治下に置かれ、土地の強制収用により那覇市内にも那覇軍港などの米軍施設が建設されました。
また、那覇市は1954年に首里市・小禄村と、1957年に真和志市と合併し、現在の那覇市域となりました。
27年間の米軍統治を経て、1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還され、新沖縄県が誕生しました(本土復帰)。しかし、基地問題など様々な問題を持ち込んでの復帰で、それは現在でも大きな問題として残されています。
2000年には主要国首脳会議「九州・沖縄サミット」が開催され、市内の首里城跡、識名園、園比屋武御嶽石門、玉陵がユネスコ世界遺産に登録されるなど、沖縄が世界に広く紹介されました。
長い歴史のなかで琉球・沖縄史の表舞台であった那覇市。現在でも、歴史や文化を色濃く伝える都市として、さらに風格ある県都として発展を続けています。
歴代の王統
天孫氏王統(25代17802年)
解説 |
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神話上の琉球最初の王統。25代、1万7802年続いたとされるが、歴代の王名も伝わっていない。天地開闢の時、天帝の長男が国の主となり天孫氏を称したという。 |
舜天王統(3代73年)
王名 | 在位年 | 生没 | 解説 | |
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1 | 舜天 (しゅんてん) | 1187~1237年 | 1166~1237年 | 舜天王統の開祖と伝えられる。1180年に浦添按司となり、1187年に王位に就いたとするが、実在を証明する史料は全く残っていない。源為朝と大里按司の妹との間に生まれた子という伝説がある。 |
2 | 舜馬順煕 (しゅんばじゅんき) | 1238~1248年 | 1185~1248年 | 舜天の子。父の跡を継いで1238年に王位に就いた。在位11年だが、経歴などは不明。国政は安泰だったとされるが、実在したのかはっきりしていない。 |
3 | 義本 (ぎほん) | 1249~1259年 | 1206~? | 舜馬順煕の子。1249年、王位に就く。飢饉や疫病が流行ったため、群臣の勧めで英祖に国政を任せたところ収まった。そこで、自らは徳がないということで、英祖に王位を譲ったという。 |
英祖王統(5代90年)
王名 | 在位年 | 生没 | 解説 | |
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1 | 英祖 (えいそ) | 1260~1299年 | 1229~1299年 | 英祖王統の開祖。神号は英祖日子(えそのてだこ)。父は浦添の伊祖グスクを拠点にしていた恵祖。飢饉が続いていた義本王の摂政となる。その後、義本から王位を譲られたとされる。 |
2 | 大成 (たいせい) | 1300~1308年 | 1247~1308年 | 英祖の子。父の在位が長かったため54歳で王位に就いた。温厚・謙虚な人柄で常に仁義を惜しむことなく物事にあたり、その治世は平穏な時代だったという。 |
3 | 英慈 (えいじ) | 1309~1313年 | 1268~1313年 | 大成の第二子。1309年に父の跡を継いで王位に就いた。在位5年だが、経歴などは不明。旧章(昔からのしきたり)を尊重したという。 |
4 | 玉城 (たまぐすく) | 1314~1336年 | 1296~1336年 | 英慈の第四子。1306年、玉城を領したことから玉城王子と称した。酒や狩猟を好んで政務を怠ったため民衆の信頼を失い、国が三山に分かれ抗争が始まったとされる。 |
5 | 西威 (せいい) | 1337~1349年 | 1328~1349年 | 玉城の子。10歳で王位に就くが、母親が実権を握ったため政治は乱れ、世の賢者は去っていったという。西威の死後、民衆は浦添按司の察度を王に推挙した。 |
察度王統(2代56年)
王名 | 在位年 | 生没 | 解説 | |
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1 | 察度 (さっと) | 1350~1395年 | 1321~1395年 | 察度王統の開祖。1350年、民衆に推され王位に就いた。1372年には中国の招きに応じ進貢、後に朝鮮との交流や東南アジアとの貿易を行う。また、中国の国子監への留学を開始した。 |
2 | 武寧 (ぶねい) | 1396~1406年 | 1356~? | 察度の子。1396年、王位に就く。1404年には初めて中国の冊封を受ける。進貢貿易も積極的に行ったが、後に政務を怠り民衆が反発、尚巴志に滅ぼされた。 冊封年:1404年(初めて中国の冊封を受ける、行人:時中) |
第一尚氏王統(7代64年)
王名 | 在位年 | 生没 | 解説 | |
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1 | 尚思紹 (しょう・ししょう) | 1406~1421年 | ?~1421年 | 第一尚氏王統の開祖。はじめ苗代大比屋といった。父は伊平屋島出身の鮫川大主。当時、佐敷按司だった息子の尚巴志が1406年に武寧を滅ぼし、尚思紹を王に奉じた。 冊封年:? |
2 | 尚巴志 (しょう・はし) | 1422~1439年 | 1372~1439年 | 尚思紹の子。武寧を滅ぼした後、父を王にし、自らは三山統一を目指し奔走した。1429年に三山統一を達成。首里城整備や貿易を進めるなど第一尚氏王統の基礎を作った。 冊封年:1425年(正使:柴山) |
3 | 尚忠 (しょう・ちゅう) | 1440~1444年 | 1391~1444年 | 尚巴志の第二子。1422年、国頭地方を統治するため、北山監守として今帰仁グスクに派遣され、今帰仁王子を称した。後に王位に就き、1443年に冊封を受けた。 冊封年:1443年(正使:余べん、副使:劉遜) |
4 | 尚思達 (しょう・したつ) | 1445~1449年 | 1408~1449年 | 尚忠の子。在位中、進貢使の従者らが中国で殺傷事件を起こしたり、中国沿岸部で海賊が多発し進貢に影響が出るなど多難な時期だった。 冊封年:1448年(正使:陳傅、副使:万祥) |
5 | 尚金福 (しょう・きんぷく) | 1450~1453年 | 1398~1453年 | 尚巴志の第六子。尚思達に嫡子がいなかったため、王位に就いた。1451年に海中道路の長虹堤を建造する。死後に王位継承をめぐる志魯・布里の乱が起き、首里城が焼失した。 冊封年:1452年(正使:陳謨、副使:董守宏) |
6 | 尚泰久 (しょう・たいきゅう) | 1454~1460年 | 1415~1460年 | 尚巴志の子。兄である尚金福の跡を継いで王位に就く。仏教を篤く信仰し、多くの寺院を創建、万国津梁の鐘の鋳造も行った。1458年には護佐丸・阿麻和利の乱が起こった。 冊封年:1456年(正使:厳誠、副使:劉倹) |
7 | 尚徳 (しょう・とく) | 1461~1469年 | 1441~1469年 | 尚泰久の第三子。父の跡を継ぎ1461年に王位に就く。在位9年のうち計11回の進貢をし、諸国とも積極的な貿易をしている。1466年、喜界島遠征を行った。 冊封年:1463年(正使:潘栄、副使:蔡哲) |
第二尚氏王統(19代410年)
王名 | 在位年 | 生没 | 解説 | |
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1 | 尚円 (しょう・えん) | 1470~1476年 | 1415~1476年 | 第二尚氏王統の開祖。父は尚稷(後代の追称)。伊是名島出身で、はじめは金丸と称していた。尚泰久と尚徳に仕えていたが尚徳の死後、群臣に推され王位に就き、尚円と称した。 冊封年:1472年(正使:官栄、副使:韓文) |
2 | 尚宣威 (しょう・せんい) | 1477年(在位6ヶ月) | 1430~1477年 | 尚円の弟。尚円の跡継ぎとして、王位に就くものの、神託により退位し、甥の尚真が王位に就いた。その後、越来間切(現沖縄市)に隠居し、1477年卒した。 冊封年:― |
3 | 尚真 (しょう・しん) | 1477~1526年 | 1465~1526年 | 尚円の長男。神託により13歳で王位に就き、50年もの間、在位した。中国や東南アジアと活発な貿易を行い、また国内でも中央集権体制を整え、神女組織を形成するなど、王国の基盤を確立した。 冊封年:1479年(正使:董旻、副使:張祥) |
4 | 尚清 (しょう・せい) | 1527~1555年 | 1497~1555年 | 尚真の五男。尚真王代に確立された王国の基盤を発展させた。在位中、『おもろさうし』第一巻の編集のほか、首里城の城壁を二重にし、那覇港に倭寇に備えた屋良座森グスクを築造した。 冊封年:1534年(正使:陳侃、副使:高澄) |
5 | 尚元 (しょう・げん) | 1556~1572年 | 1528~1572年 | 尚清の次男。在位中は東南アジア貿易が途絶え、薩摩との関係に陰りが見えた頃だった。1571年には自ら大軍を率いて奄美大島を征伐したという。 冊封年:1562年(正使:郭汝霖、副使:李際春) |
6 | 尚永 (しょう・えい) | 1573~1588年 | 1559~1588年 | 尚元の次男。父の跡を継いで15歳で王位に就いた。1579年の冊封期間中、現在の守礼門(当時は首里門)に初めて「守礼之邦」の額を掲げた。 冊封年:1579年(正使:蕭崇業、副使:謝杰) |
7 | 尚寧 (しょう・ねい) | 1589~1620年 | 1564~1620年 | 尚永に嫡子がなかったため、尚永の又従兄弟にあたる尚懿の子の尚寧が王位に就いた。1609年の薩摩侵攻後、鹿児島に連行され、さらに江戸で徳川家康らに謁見した。1611年に帰国。 冊封年:1606年(正使:夏子陽、副使:王士禎) |
8 | 尚豊 (しょう・ほう) | 1621~1640年 | 1590~1640年 | 尚元の三男である尚久の四男。1616年に国質として薩摩に上国。摂政に任じられて帰国し、21年には尚寧の跡を継いだ。大和横目・在番奉行所など対薩摩に関する官職・役所を創設した。 冊封年:1633年(正使:杜三策、副使:楊ろん) |
9 | 尚賢 (しょう・けん) | 1641~1647年 | 1625~1647年 | 尚豊の三男。明・清の交代期だったため、明の滅亡、清の勃興という動乱に巻き込まれ、冊封も受けられずに卒した。在位中、烽火台の設置や砂糖・ウコンの専売制が開始された。 冊封年:― |
10 | 尚質 (しょう・しつ) | 1648~1668年 | 1629~1668年 | 尚豊の四男。早くして卒した兄である尚賢の跡を継いで王位を継いだ。1666年には羽地朝秀が摂政に就任し国政に敏腕をふるい、統治体制を刷新するなど大きな転換点となった。 冊封年:1663年(正使:張学礼、副使:王垓、初めて清朝の冊封を受ける) |
11 | 尚貞 (しょう・てい) | 1669~1709年 | 1645~1709年 | 尚質の長男。1676年、羽地朝秀が国相に任じられ、尚質王代に引き続き行政改革が進められた。在任中には学問奨励や、官職の再編、祭祀・行事の整理などが行われた。 冊封年:1683年(正使:汪楫、副使:林麟しょう) |
12 | 尚益 (しょう・えき) | 1710~1712年 | 1678~1712年 | 尚貞の長男である尚純の長男。尚貞の嫡子である尚純は王位に就く前に卒したため、孫の尚益が祖父の跡を継いで1710年に王位に就いたが、在位わずか3年で卒した。 冊封年:― |
13 | 尚敬 (しょう・けい) | 1713~1751年 | 1700~1751年 | 尚益の長男。14歳で父の跡を継いで王位に就いた。蔡温を国師、後に三司官とし、補佐を受けた。政治・経済・文化などの各方面において、制度が整えられた時代だった。 冊封年:1719年(正使:海宝、副使:徐葆光) |
14 | 尚穆 (しょう・ぼく) | 1752~1794年 | 1739~1794年 | 尚敬の長男。43年にも及ぶ在位中に多くの業績を残した。主なものに首里城の大規模整備、『琉球科律』(刑法集)の完成などがある。しかし、この頃から財政が逼迫するようになった。 冊封年:1756年(正使:全魁、副使:周煌) |
15 | 尚温 (しょう・おん) | 1795~1802年 | 1784~1802年 | 尚穆の長男である尚哲の次男。12歳で祖父の尚穆の跡を継ぎ王位に就いた。尚温の冊封にあわせて識名園が造られた。国学や平等学校所の創設など、教育の振興に努めたが19歳で卒した。 冊封年:1800年(正使:趙文楷、副使:李鼎元) |
16 | 尚成 (しょう・せい) | 1803年(在位一年) | 1800~1803年 | 尚温の長男。19歳で卒した父の跡を継いで4歳で王位に就くものの、同年卒した。1808年、尚灝の冊封の際に追封された。 冊封年:― |
17 | 尚灝 (しょう・こう) | 1804~1834年 | 1787~1834年 | 尚穆の長男である尚哲の四男。甥の尚成が卒したため、急遽、王位に就いた。財政の逼迫や農村の疲弊が深刻化するなか、病により隠居し、代わりに長男の尚育が国政を支えた。俗に坊主御主と呼ばれる。 冊封年:1808年(正使:斉鯤、副使:費錫章) |
18 | 尚育 (しょう・いく) | 1835~1847年 | 1813~1847年 | 尚灝の長男。摂政を経て、1835年に王位に就く。村学校の設立や孔子廟の建設を行う。当時の財政は逼迫し、さらに西洋船が多く渡来する多難な時代だった。 冊封年:1838年(正使:林鴻年、副使:高人鑑、戌の御冠船) |
19 | 尚泰 (しょう・たい) | 1848~1879年 | 1843~1901年 | 尚育の次男で、最後の琉球国王。父の跡を継いで6歳で王位に就く。1879年の沖縄県設置により首里城を追われ、華族として東京居住が命じられた。1885年に侯爵となる。 冊封年:1866年(正使:趙新、副使:于光甲、寅の御冠船) |
尚家および那覇市関係年表
時代区分
年表
旧石器時代・貝塚時代・古琉球
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
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BC30000年頃 | - | 山下洞人が居住(山下町第一洞穴遺跡)。 |
BC1000年頃 | - | 崎樋川貝塚Aが使用される。 |
607年 | 大業3 | 隋の煬帝、朱寛を流求(りゅうきゅう)に遣わす。 |
629年 | 貞観3 | この頃、『随書』(流求国伝)が編集される。 |
753年 | 天宝12 | 遣唐使船が阿児奈波島(沖縄島)に至る。 |
1187年 | 淳熙14 | 舜天が即位(舜天王統の始まり)。 |
1260年 | 景定元 | 英祖が即位(英祖王統の始まり)。 |
1291年 | 至元28 | 元の世祖(フビライ・ハーン)、楊祥に6,000の兵を率いらせ瑠求(りゅうきゅう)を討つが失敗。 |
1350年 | 至正10 | 察度が即位(察度王統の始まり)。 |
1372年 | 洪武5 | 明の洪武帝、楊載を遣わし招諭。中山王 察度、これに応えて明に進貢(琉中関係の始まり)。 |
1394年 | 洪武27 | 察度、明より冠帯を賜る。 |
1404年 | 永楽2 | 中山王 武寧、明の冊封を受ける(冊封使 時中、冊封の始まり)。 |
1406年 | 永楽4 | 尚巴志、中山王 武寧を滅ぼし、父 尚思紹を中山王とする(第一尚氏王統の始まり)。 |
1414年 | 永楽12 | 室町幕府第4代将軍 足利義持、「りうきう国のよのぬし」(尚思紹)宛に書を送る。以後、16世紀まで室町幕府への遣使が行われる。 |
1415年 | 永楽13 | 金丸(後の第二尚氏初代 尚円)伊是名島に生まれる。 |
1416年 | 永楽14 | 尚巴志、北山王 攀安知を滅ぼす。北山王所蔵の宝刀「千代金丸」が中山に渡る。 |
1425年 | 洪熙元 | 尚巴志(第一尚氏第2代)、明の冊封を受ける(冊封使 柴山、周彜)。 |
1427年 | 宣徳2 | 尚巴志、明より皮弁冠服を賜る。 龍潭を造営し、庭園が整備される。 |
1428年 | 宣徳3 | 中山門が建立される。 |
1429年 | 宣徳4 | 尚巴志、南山王 他魯毎を滅ぼし、三山(北山・中山・南山)統一。 |
1443年 | 正統8 | 尚忠(第一尚氏第3代)、明の冊封を受ける(正使 余べん、副使 劉遜)。 |
1448年 | 正統13 | 尚思達(第一尚氏第4代)、明の冊封を受ける(正使 陳傅、副使 万祥)。 |
1451年 | 景泰2 | 尚金福、国相の懐機に命じ長虹堤を築造。 |
1452年 | 景泰3 | 尚金福(第一尚氏第5代)、明の冊封を受ける(正使 陳謨、副使 董守宏)。 |
1453年 | 景泰4 | 王位継承をめぐる志魯・布里の乱が起こり、首里城が全焼。 |
1456年 | 景泰7 | 尚泰久(第一尚氏第6代)、明の冊封を受ける(正使 厳誠、副使 劉倹)。 |
1458年 | 天順2 | 尚泰久、海外貿易の気概を刻む巨鐘(万国津梁の鐘)を首里城正殿にかける。 |
1463年 | 天順7 | 尚徳(第一尚氏第7代)、明の冊封を受ける(正使 潘栄、副使 蔡哲)。 |
1467年 | 成化3 | 朝鮮にオウム・クジャクを贈り、返礼として朝鮮王朝第7代国王 世祖から方冊蔵経が贈られる。 |
1470年 | 成化6 | 金丸が王位に就き尚円と称する(第二尚氏王統の始まり)。 |
1472年 | 成化8 | 尚円(第二尚氏初代)、明の冊封を受ける(正使 官栄、副使 韓文)。 |
1479年 | 成化15 | 尚真(第二尚氏第3代)、明の冊封を受ける(正使 董旻、副使 張祥)。 |
1481年 | 成化17 | 薩摩へ紋船を遣わす(紋船の始まり、1611年まで13回派遣)。 |
1492年 | 弘治5 | 円覚寺(尚家菩提寺)が建立される(1494年竣工)。 |
1500年 | 弘治13 | 尚真、八重山のオヤケアカハチを攻め滅ぼす。 |
1501年 | 弘治14 | 玉陵(王家陵墓)が造営される。 |
1502年 | 弘治15 | 円鑑池を造営、経堂(後の弁財天堂)が創建される。 |
1508年 | 正徳3 | 首里城正殿に欄干、御庭前に龍柱が設けられる。この頃、首里城北殿が創建される。 |
1522年 | 嘉靖元 | 宮古の仲宗根豊見親、宝剣「治金丸」を王府に献上。 |
1528年 | 嘉靖7 | この頃、首里門(後の守礼門)が建立される。 |
1531年 | 嘉靖10 | 『おもろさうし』第一巻が編集される(1613年に第二巻、1623年に第三巻以下編集)。 |
1534年 | 嘉靖13 | 尚清(第二尚氏第4代)、明の冊封を受ける(正使 陳侃、副使 高澄)。陳侃・高澄、『使琉球録』(1534年刊)を著す。 |
1562年 | 嘉靖41 | 尚元(第二尚氏第5代)、明の冊封を受ける(正使 郭汝霖、副使 李際春)。郭汝霖、『使琉球録』(1562年刊)を著す。 |
1579年 | 万暦7 | 尚永(第二尚氏第6代)、明の冊封を受ける(正使 蕭崇業、副使 謝杰)。蕭崇業・謝杰、『使琉球録』(1579年刊)を著す。 首里門に「守礼之邦」の額を掲げる(以降、守礼門と呼ばれる)。 |
1606年 | 万暦34 | 尚寧(第二尚氏第7代)、明の冊封を受ける(正使・夏子陽、副使・王士禎)。夏子陽・王士禎、『使琉球録』(1606年刊)を著す。 |
近世琉球
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
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1609年 | 万暦37 | 薩摩藩、兵3,000をもって琉球へ侵攻(以後、幕藩制支配下に組み込まれ、日中両国の外交的関係下に置かれる)。薩摩藩、奄美を割譲し直轄地とする。尚寧が捕らえられ薩摩へ連行される。 |
1611年 | 万暦39 | 薩摩、「掟十五ヶ条」(9月19日付)を令達。 |
1628年 | 崇禎元 | 首里城南殿が創建される。 |
1633年 | 崇禎6 | 尚豊(第二尚氏第8代)、明の冊封を受ける(正使 杜三策、副使 楊ろん)。尚豊、例の通り明より皮弁冠服を賜る(皮弁冠服下賜の最後)。杜三策の従客 胡靖、「琉球図記」(1633年、後に『杜天使冊封琉球真記奇観』として編集)を著す。 |
1634年 | 崇禎7 | 尚豊即位の謝恩使、京都で江戸幕府第3代将軍 徳川家光に拝謁(慶賀使・謝恩使の始まり)。 |
1636年 | 崇禎9 | 薩摩、王号を停止し、国司号に改めさせる(1712年、王号復活)。 |
1644年 | 順治元 | 李自成の乱により明が滅ぶ。清が首都を北京に遷し、中国支配を開始。 |
1649年 | 順治6 | 清の順治帝、使者を遣わし琉球を招諭。 |
1650年 | 順治7 | 羽地朝秀、琉球最初の正史『中山世鑑』を著す。 |
1660年 | 順治17 | 失火により首里城が全焼。 |
1663年 | 康煕2 | 尚質(第二尚氏第10代)、初めて清の冊封を受ける(正使 張学礼、副使 王垓)。張学礼、帰国後に『使琉球記』(1664年刊)を著す。 |
1666年 | 康煕5 | 羽地朝秀、摂政となる(~1673年)。 |
1670年 | 康煕9 | 首里城が再建され、正殿の板葺が瓦葺に改められる。 |
1673年 | 康煕12 | 羽地朝秀、「口上覚」を布達(『羽地仕置』)。 |
1683年 | 康煕22 | 尚貞(第二尚氏第11代)、清の冊封を受ける(正使 汪楫、副使 林麟しょう)。汪楫、帰国後に『使琉球雑録』(1683年刊)、『中山沿革志』(1684年刊)を著す。 |
1689年 | 康煕28 | 系図座が設置され、士族層に家譜の編集・提出が求められる。 |
1697年 | 康煕36 | 蔡鐸、『中山世譜(蔡鐸本)』(1701年完了)と『歴代宝案』の編集を開始。 |
1709年 | 康煕48 | 失火により首里城が全焼。 |
1712年 | 康煕51 | 首里城再建が本格化(1715年に完了)。 |
1713年 | 康煕52 | 『琉球国由来記』が編集される。 |
1719年 | 康煕58 | 尚敬(第二尚氏第13代)、清の冊封を受ける(正使 海宝、副使 徐葆光)。徐葆光、帰国後に『中山伝信録』(1721年刊)を著す。 |
1724年 | 雍正2 | 蔡温、『中山世譜(蔡温本)』の編集を開始(翌年、編集を完了。その後、1876年まで書き継がれる)。 |
1728年 | 雍正6 | 蔡温、三司官となる(~1752年)。 |
1743年 | 乾隆8 | 鄭秉哲ら、『球陽』の編集を開始(1745年、編集を完了。その後、1876年まで書き継がれる)。 |
1754年 | 乾隆19 | 玉御冠の金筋を七本から十二本に改める(翌年完成)。 |
1756年 | 乾隆21 | 尚穆(第二尚氏第14代)、清の冊封を受ける(正使 全魁、副使 周煌)。周煌、帰国後に『琉球国志略』(1757年刊)を著す。 |
1798年 | 嘉慶3 | 首里に国学と平等学校所が創設。 識名園の造園が開始(1799年竣工)。 |
1800年 | 嘉慶5 | 尚温(第二尚氏第15代)、清の冊封を受ける(正使 趙文楷、副使 李鼎元)。李鼎元、『使琉球記』を著す。 |
1808年 | 嘉慶13 | 尚灝(第二尚氏第17代)、清の冊封を受ける(正使 斉鯤、副使 費錫章)。斉鯤・費錫章、帰国後に『続琉球国志略』(嘉慶年間刊)を著す。 |
1816年 | 嘉慶21 | イギリス海軍のバジル・ホールが来琉。帰途、ナポレオンに琉球の国情を話す。 |
1838年 | 道光18 | 尚育(第二尚氏第18代)、清の冊封を受ける(戌の御冠船、正使・林鴻年、副使・高人鑑)。林鴻年、『使琉球録』を著す。 |
1846年 | 道光26 | 首里城正殿が重修される。 ベッテルハイムが来琉。 |
1853年 | 咸豊3 | アメリカ海軍のペリー艦隊が那覇に来航。 |
1854年 | 咸豊4 | アメリカと琉米修好条約を締結。 |
1855年 | 咸豊5 | フランスと琉仏修好条約を締結。 |
1859年 | 咸豊9 | オランダと琉蘭修好条約を締結。 |
1864年 | 同治3 | 尚典(尚泰長男、第20代当主)生まれる。 |
1866年 | 同治5 | 尚泰(第二尚氏第19代)、清の冊封を受ける(寅の御冠船、正使 趙新、副使 于光甲)。後年、趙新の報告書をもとに子孫が『続琉球国志略』(1882年刊)を刊行。 |
1867年 | 同治6 | 江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)。 |
1868年 | 同治7 | 日本年号が明治に改元。 |
1871年 | 同治10 | 明治政府が全国の藩を廃して府県を置く(廃藩置県)。 |
1872年 | 同治11 | 明治維新の慶賀使を東京に派遣、尚泰を琉球藩王とする詔を受ける(琉球藩設置)。 |
1874年 | 同治13 | 中城御殿(世子邸)が大中村に新築移転。 |
近・現代(明治・大正・昭和戦前期)
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
---|---|---|
1879年 | 明治12 | 明治政府、松田道之を処分官に陸軍400名余りと警察を琉球藩に派遣、強制的に沖縄県を設置(琉球処分/廃琉置県)。 尚泰、3月31日に首里城を明け渡し、5月27日、政府の命により上京。 |
1883年 | 明治16 | この頃、尚家資本を中心に丸一商店設立(首里士族によって経営された貿易商社、1923年頃閉鎖)。 |
1884年 | 明治17 | 尚泰、政府の許可を得て5年ぶりに帰郷。 |
1885年 | 明治18 | 尚泰、侯爵の爵位を授けられる。 |
1886年 | 明治19 | 尚順(尚泰四男)ら首里閥を中心に、沖縄広運(海運会社)を設立。翌年3月開業し、那覇・大阪間に球陽丸が就航(~1916年)。 |
1888年 | 明治21 | 尚昌(尚典長男、第21代当主)生まれる。 |
1893年 | 明治26 | 尚順ら首里閥を中心に、琉球新報創刊。 |
1894年 | 明治27 | 日清戦争(~1895年)。首里・那覇の頑固派有志、各地の御嶽に清国の勝利を祈願。 |
1896年 | 明治29 | 「沖縄県区制」により首里・那覇が首里区・那覇区になる。 尚寅(尚泰次男)らを発起人に公同会結成(尚家を世襲の県知事に、とする政治結社、1899年まで)。 |
1901年 | 明治34 | 尚泰、東京にて没し(享年59歳)、玉陵に葬られる。尚泰の遺志により、金3,000円を県立図書館建設のために寄付(1910年開館、初代館長は伊波普猷)。 尚典、侯爵の爵位を授けられる。 |
1903年 | 明治36 | 真和志間切の牧志、小禄間切の垣花(もとは儀間・湖城)が那覇区へ編入。 |
1908年 | 明治41 | 「沖縄県及島嶼町村制」により真和志間切・小禄間切が真和志村・小禄村となる。 |
1909年 | 明治42 | 首里城が陸軍省より首里区に移管される。 |
1910年 | 明治43 | 東恩納寛惇、尚泰の伝記編集主任となり、首里の尚家邸(旧中城御殿)にあった関係資料の東京移送を要請(現存する尚家文書の大半を占める)。 |
1911年 | 明治44 | 尚昌、英国オックスフォード大学へ留学(~1915年)。 |
1914年 | 大正3 | 沖縄県営鉄道(軽便鉄道)与那原線(那覇―与那原間)が開通。 沖縄電気軌道(路面電車)が開通。当初は首里―大門前間、1917年に大門前―通堂間が開業。 |
1915年 | 大正4 | 尚昌の結婚に際し、王冠、王衣裳など王家宝物の一部が、首里の尚家邸より東京へ移されたという(現存する尚家美術工芸品の大半を占める)。 |
1918年 | 大正7 | 尚裕氏(尚昌長男、第22代当主)生まれる。 |
1920年 | 大正9 | 尚典、没し(享年57歳)、玉陵に葬られる。 尚昌、侯爵の爵位を授けられる。 石嶺・末吉・平良が西原村から首里区へ編入。大名を新設。 |
1921年 | 大正10 | 5月20日、市制施行により那覇市・首里市になる。12月19日、那覇市章を制定。 |
1922年 | 大正11 | 沖縄県営鉄道嘉手納線(那覇―嘉手納間)が開通。 |
1923年 | 大正12 | 尚昌、中国旅行の途中、急病を発し帰国後没す(享年36歳)。 首里市会、首里城正殿の取り壊しを議決、伊藤忠太、鎌倉芳太郎の奔走で、文部省が保存を決定。 沖縄県営鉄道糸満線(那覇―糸満間)が開通。 |
1924年 | 大正13 | 東恩納寛惇、『尚泰侯実録』を刊行。 鎌倉芳太郎、伊藤忠太とともに琉球工芸調査にあたり、首里の尚家邸の宝物や首里城を調査・撮影(~1925年)。 |
1925年 | 大正14 | 首里城正殿が国宝に指定される。 |
1929年 | 昭和4 | 那覇市歌(作詞 安藤佳翠、作曲 宮良長包)を制定。 |
1932年 | 昭和7 | 尚裕氏、元服し侯爵の爵位を授けられる。 |
1933年 | 昭和8 | 小禄海軍飛行場(現 那覇空港)が完成。 |
1934年 | 昭和9 | 「那覇」の読み方が日本放送語審査委員会で「ナハ(NAHA)」に決定、「ナハ」、「ナファ」、「ナワ」、「ナバ」などと読まれていたものが統一される。 牧志街道(国際通りの前身)が開通。 |
1935年 | 昭和10 | 日本航空輸送(後に大日本航空へ統合)が福岡大刀洗―那覇―台北間に就航。 首里市営バス(首里―那覇間)が運行開始。 |
1941年 | 昭和16 | 尚裕氏、東京帝国大学文学部卒業。 |
1944年 | 昭和19 | 8月22日、学童疎開船対馬丸、米潜水艦の魚雷攻撃で沈没し、1,484人が死亡。 10月10日、米機動部隊による大空襲で那覇市街の90%が焼失、首里市・那覇市で11,125軒が全半焼、635人が死亡(10・10空襲)。 |
1945年 | 昭和20 | 4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。地上戦が行われ、多くの人命と文化遺産が失われる(6月23日、組織的な抵抗が終了)。 8月20日、米軍政府、沖縄諮詢会(中央政府を設立するための準備機関)を設置。 9月7日、嘉手納で無条件降伏文書に調印。 |
近・現代(戦後)
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
---|---|---|
1945年 | 昭和20 | 11月10日、陶器製造のために先遣隊103名が壺屋に入市(このころ住民は収容所に入れられており、那覇に立ち入ることはできなかった)。 米軍、土地を強制収用し施設(那覇軍港、那覇空軍・海軍補助施設、牧港住宅地区)の建設を開始。 |
1946年 | 昭和21 | 1月3日、糸満管内壺屋区として壺屋の民家(現 壺屋1丁目16番地)に区役所設置。 4月4日、壺屋区が糸満管内から分離し那覇市となり、壺屋区役所も那覇市役所となる。 |
1947年 | 昭和22 | 市役所、ガーブ川沿い(現 牧志3丁目3番地の公設市場雑貨部一帯)にテント張りの事務所を設けて移転。 みなと村の設置が告示される。 |
1948年 | 昭和23 | フロラ台風によりガーブ川が氾濫、市役所のテント・書類が流されたため、当時は那覇市外の開南(現 樋川1丁目3番地一帯)へ移転。 通貨が日本円からB円に切り替え。 |
1949年 | 昭和24 | 市役所、牧志(後のグランドオリオン敷地。 現 牧志3丁目11番地一帯)に庁舎を建て移転。 |
1950年 | 昭和25 | みなと村が那覇市に合併。 11月4日、沖縄群島政府(沖縄本島における住民側の自治機構)発足。 12月5日、米軍政府が米国民政府(USCAR、沖縄統治のためのアメリカ政府の出先機関)になる。 |
1952年 | 昭和27 | 4月1日、琉球政府(全琉における住民側の自治機構)発足。 市役所、天妃小学校校舎(現 久米1丁目3番地)に入居。 米軍、土地の強制収用で与儀タンクファーム(通称 与儀ガソリンタンク)を建設(1972年返還)。 |
1953年 | 昭和28 | 尚家旧蔵の『おもろさうし』等、ペリー来航百年を機にアメリカより返還、琉球政府立博物館に収蔵される。 米軍、真和志村(安謝・銘苅)と小禄村(具志)で土地を強制収用。 |
1954年 | 昭和29 | 首里市・小禄村と那覇市が合併。 |
1957年 | 昭和32 | 真和志市と那覇市が合併。 |
1958年 | 昭和33 | 通貨がB円から米ドルに切り替え。 |
1961年 | 昭和36 | 『那覇市史』の編集が開始。 |
1964年 | 昭和39 | 那覇市民憲章を制定。 |
1965年 | 昭和40 | 市役所、泉崎の区画整理地(現在地、泉崎1丁目1番地)に新庁舎を建設し移転。 |
1972年 | 昭和47 | 5月15日、沖縄の施政権が日本に返還、新沖縄県が誕生。 通貨が米ドルから日本円へ切り替え。 |
1973年 | 昭和48 | 沖縄特別国民体育大会「若夏国体」開催。 |
1975年 | 昭和50 | 沖縄国際海洋博覧会開幕。 |
1978年 | 昭和53 | 7月30日、交通方法が右側通行から左側通行に変更(ナナサンマル)。 |
1982年 | 昭和57 | この頃、那覇空軍・海軍補助施設(米軍施設)が返還。 |
1983年 | 昭和58 | 市木(フクギ)、市花木(ホウオウボク)、市花(ブーゲンビレア)を制定。 |
1987年 | 昭和62 | 第42回国民体育大会「海邦国体」開催。 牧港住宅地区(米軍施設)が全面返還(後の新都心地区)。 |
1992年 | 平成4 | 尚裕氏、玉陵、識名園、崇元寺を那覇市へ寄贈。 首里城公園が開園。 |
1993年 | 平成5 | 横内襄氏、横内家資料(古文書・美術工芸品)を那覇市へ寄贈。 |
1995年 | 平成7 | 尚裕氏、尚家継承文化遺産(古文書)を那覇市へ寄贈。 |
1996年 | 平成8 | 尚裕氏、尚家継承文化遺産(美術工芸品)を那覇市へ寄贈。 |
1997年 | 平成9 | 尚裕氏、逝去(8月30日、享年80歳)。 |
2000年 | 平成12 | 主要国首脳会議「九州・沖縄サミット」開催。 首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園がユネスコ世界遺産に登録。 |
2002年 | 平成14 | 6月26日、尚家継承美術工芸、国の重要文化財に指定。 |
2003年 | 平成15 | 沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開通。 |
2006年 | 平成18 | 6月9日、琉球国王尚家関係資料が戦後沖縄で初の国宝に指定。 7月8日、那覇市歴史博物館開館。 |
2009年 | 平成21 | 市役所、新庁舎建設に向け仮庁舎(上之屋1丁目2番)へ一時移転。 |
2010年 | 平成22 | 市魚(マグロ)を制定。 |
2013年 | 平成25 | 市役所、新庁舎での業務を開始。 4月1日、那覇市が中核市に移行。 |
※1879年の琉球処分以前は中国年号、以降は日本年号を用いた。